尊敬と憧憬
「憧れ・尊敬する人は?」
なんて、生きていれば幾度と目にする質問、文集の特集ページだったり、道徳の授業だったり、俗っぽいもので言えば昔流行った「前略プロフ」なんて。(わかる人は同年代です)
答えも結構個性的で、1人だけドン!と書いてある人もいれば、両親や家族のことが書いてあったり。
ちなみにですが私は絶対に「両親」だけは書かない人間です。
両親には感謝こそすれ尊敬の念は微塵も持っておりませんので。
私は結構たくさんの憧れの存在や尊敬する人があるタイプです。その対象は幅広く芸能人から恩師まで。
それでもって尊敬する人と憧れの人は別の人だったりもします。
憧れの人は尊敬する人でもあったりはするけれど、尊敬する人が必ずしも憧れかと言われたら少し違う。
お笑いコンビ「ラーメンズ」の小林賢太郎や中学時代の国語の先生、高校のとある同級生や、大学時代のとある同級生。彼らは憧れの人にあたります。
対して歌舞伎役者 坂東巳之助や、コブクロ 小渕健太郎なんかは私の尊敬する人です。
憧れと尊敬って違うの?
あこが・れる【憧れる/▽憬れる】
[動ラ下一][文]あこが・る[ラ下二]《「あくがる」の音変化》
1 理想とする物事や人物に強く心が引かれる。思い焦がれる。「名声に―・れる」「都会生活に―・れる」
2 気をもむ。気が気でなくなる。
「此方 (こちら) は地を離て沖 (あが) る事が出来ず、只徒らに―・れて両手を延ばすのみ」〈二葉亭・めぐりあひ〉
そん‐けい【尊敬】
[名](スル)
1 その人の人格をとうといものと認めてうやまうこと。その人の行為・業績などをすぐれたものと認めて、その人をうやまうこと。「互いに―の念を抱く」「―する人物」
2 文法で、聞き手や話題の主、また、その動作・状態などを高めて待遇する言い方。→尊敬語
言葉の話をするのにまず辞書引いてくる癖は中途半端に元日本語学専攻だったからです。
辞書で見てもだいぶ意味が異なっているけど、だいたいそんな感じ。
憧れの人達の、どこに憧れているかって、この世に星の数ほどある言葉たちを的確に過不足無く、それでいて絶妙な塩梅でひねる、その技術に他でもなく憧れている。
私もそんなふうに言葉を扱えたらいいのに。
あんなふうに。
「憧れ」って、そういう羨望の思いが少なからず含まれている気がするんですよね。
いっぽうで、例えば坂東巳之助さんや小渕健太郎さんの考え方や、それを写した文章を読むたびに納得させられることが何度もありました。
驚くほどに納得させられた。
私の中にはきっと無かっただろう考えを一つのビジョンとしてすんなり納得させられ、尊重させられる。
「尊重させられる」というと少し語弊があるけれど、自分ではない他者のビジョンを、否応なしに尊重せざるを得ないような。
私の中で起こっているこれらの化学反応のことを私は「尊敬」と呼び、彼らはそんな反応を起こさせるような人物であるということなのです。
だから、憧れの小林賢太郎に関して言えば、そういう意味での尊敬の念を持ったうえで、彼の技術を羨み、焦がれている。
なんとも図々しい女ですね(笑)
それでも、坂東巳之助さんのインタビュー記事や小渕健太郎さんのブログを読んで、すっと自分の中で尊重させられたとて、それは一つの考えとして鎮座しているに過ぎないのだから、私は彼らのようになりたい、とは思わないのです。
そこが違いかなあ、なんて思ったりします。
しかしながら、小林賢太郎については彼のエンターテイメントに対する姿勢に敬服した上でその技術に憧れていますし、小渕健太郎についても彼の実直で柔軟な人間性に対して尊敬しているのはもちろん、自分もそうあれたら…と思うこともあります。
書き出してみると自分にはこんなにお手本にしたい、と思える憧れの存在がいるのか。と思ったり、みっくんみっくん言って若手と言ってたってそもそも目上の人であって尊敬に値する人物なんだなあ。と気づいたり。
幸せ者です。
こんだけ長々書いておいて結局、明確なボーダーがあるわけじゃなさそうですね。
憧憬と尊敬って響きが似てますしね。
イッツ オーケイ。
ツチカワ