「レ」の音が出ない
いつも、大好きなコブクロのことや歌舞伎のこと、観に行った舞台のお話はしているけれど、好きだったもののことについて思い出したことを書きたいなあ、と思いました。
好きだったもの。
寝れなくて、なんとなく中学2年の頃のコンクールの映像を観ていました。中学時代全てをかけて夢中になっていたものは吹奏楽でした。
と言いましても、東京都の中でも底辺の区の、さらに下から数えたほうが早いような底辺中学校の、弱小吹奏楽部でした。
中学2年の頃のメンバーは、総出でも22人しかいませんでした。それも、3年生は居なかった。
いや、厳密に言えば3年生は居ました。居ましたが、途中で入部した人がほとんどでしたので、3年間吹奏楽の経験がある部員は誰もいなかったのです。
顧問の先生は、緊張すると指揮がやや速くなる先生でした。
ただでさえうちの学校はやたらテンポが速かったので、コンクールの音源は冒頭のお手本よりもだいぶ速いです。
私は3年間ホルンを担当しました。
私が入部した頃は既存の部員が10人にも満たない小さな部でした。もちろん、最低限の楽器しかおりませんので、ホルンは私が第一号。基礎的なことはチューバの先輩が教えてくれましたが、ほぼ手探りの練習がスタートしました。
まだ覚えています。この頃のコンクールで吹いた曲、中盤のゆったりしたパートはホルンの聴かせどころ。私はスラーのまま「レ」の音まで上がっていくのが苦手でした。
映像では、すべての「レ」が出ていました。当たり前といえば当たり前のことなのですが、なんせ弱小ですので(笑)
全ての音が出ただけでたいそうな感動なのです。
決してお世辞にも上手いとは言えない演奏。
結果は奨励賞でした。というか、2年出たコンクールで、2回とも奨励賞でした。
翌年、3年生の夏は同じコンクールの予選で落ちました。私の人生の最後のコンクールが、あのCENTURIAでした。
当時私はすでに演劇に興味があったので、区の連合音楽会での引退演奏をもって吹奏楽は辞めるつもりでした。
コンクールに出ない分、文化祭や連合音楽会に向けてより一層力を入れて練習しました。
インフルの脅威にさらされながら(本番前に私以外の家族が全員インフルにかかるというミラクルも起きました)、たどり着いた文化祭の演奏は、正直3年間の全ての演奏の中でも一番の出来だったと思います。
引退演奏の連合音楽会。
何人かがインフルに倒れ、リズム隊と1stトランペットが不在という圧倒的に音が足りない状況になりました。
文化祭で上手くいったと思っていた自分の演奏は、その中では上手く立ち回れなかった。周りの大きな音に隠れていただけだった。
たくさんの課題を残したままここで引退なんてできない、と、高校に進学した私は演劇はやらずに吹奏楽を続けることにしました。
結局、中学時代の弱小に輪をかけてぐるぐる巻きにしたような高校の弱小吹奏楽部。なおかつやる気がないときたもんで、夏のコンクール前に退部しました。
「こんな部活やってられません」と啖呵きって退部届を出したその日に顧問、部員一同から拍手で見送られて音楽室を出たことはずっと忘れないと思います。私は今嫌味を言っています。
そんな感じで吹奏楽と決別してからはずっと楽器なんて触っていないので、最後に吹いた曲は、たぶん、高1で出るはずだったコンクールの課題曲だったと思います。
曲名が出てこないけど。
小、中、高、と小さな吹奏楽部で細々と活動し、それでもやる気だけは必ず携えてやってきた大好きな吹奏楽、変な形で辞めることになってしまってからはそれまでやってきた吹奏楽の活動もコンプレックスになってしまって、だんだんと大きな声で言えなくなってきていました。
「吹奏楽をやってたんだ!」と言っても、周りの経験者たちの話題についていけるほどの実績もなければ曲も知らない。
こうしてどんどん自分の人生という分母が大きくなって、限りなく吹奏楽をやっていた時間がゼロに近くなっていくのかなあ…ちょっと寂しいなあ…
と思ったので、ダラダラとこんなところに書き残してみました。
大好きだったものが今も大好きとは限らないけれど、大好きだったものを嫌いになってしまうことほど悲しいことはない気がする。
「レ」の音が出なかった私は誰よりもホルンが好きだっただろうし、吹奏楽が誇りだっただろうな、と、へたっぴーな演奏を観て思ったのでした。
ここまで読んだ人、いないでしょ。
いたら聞きたい。
私これから寝るべき?
ツチカワ